水蒸気



その日は朝からぽかぽか陽気だった。
用事もなかったので、かまわずそのまま眠っていたのだが、
どうも暑くて寝苦しい。
何か変だなと思い始めるが、取り立てて何が、
という訳でもなかったので、
そのままもう少し寝ようとしたが、
それにしてもやはり部屋の中が少し暑すぎる。
何かいつもと違う感じがする。


何かの気配に気がついて片目で室の窓に目をやると、
外で白い蒸気が噴出しているのが少し見えた。
少し変だと思いベッドから起きて、
改めて窓から外を見渡すと、
なんと自分の家に鉄道の駅が横付けされていて
蒸気機関車が停車しているではないか。


どうりで。


暑いのは機関車の蒸気のせいだったのだ。
それにしてもまだ納得がいかない。
が、とりあえず様子を見に外に出てみることにした。


駅のプラットフォームを行ったり来たりして
状況を把握しようとする。
確かに鉄でできた黒い機関車が蒸気を吐きながら
呼吸している。


これは一体どういうことなのだろう。


何人かの乗務員が点検をしているし、
線路もずっと彼方まで続いている。
それに機関車のポッポーという音や蒸気のシュー
というサウンドが僕の足元に絡みつくように
吹きだされている。


しかたがないので、窓から顔を出していた運転手に
「この機関車、どのくらい停車しているのですか」
と尋ねてみた。
すると、「そうだね、少し点検するところもあるし、
行き先も検討しなければならないので
二三日ってところかな」
「ところで君はこれから何か用事でもあるの」
「よかったらちょっと手伝ってほしいんだけど、
 どうかな」と逆に聞かれた。


僕はまだ面食らっている状態だし。そう言われても、
と考えあぐねていると、
「そうかい、そらー助かるな」
「じゃー手始めに中に入って乗客の状態でも見てもらえると
ありがたいんだけど」と一方的に頼まれてしまった。


けれど、内心これに乗れるのかと思うと少しわくわく
し始めてきた。

乗り口の取っ手を握ってぐいっと機関車に入り込む。
そっと車両の扉を開けて中を覗くと、通路が川になっていて、
気がつくといつのまにか自分の足が濡れている。
慌てて座席の上に飛び乗った。周りの乗客を見ると、
みんな座席に正座してその川になっている通路に向かって
静かに釣り糸を垂れている。


一体ここで何が釣れるのか不思議に思って、
そのうちの一人に聞いて見た。


「生きの良いポラロイドSX-70
インスタント写真が釣れるんだよ」
「なぜこれが釣れるかと言うとね。
 実は30年ほど前にフネと言う男がボートに乗って
 ここを通りかかったんだ」
「それでね。このフネという男は何でもかんでも
 このポラロイドカメラで取りまくるんだ」
「本当に何でもかんでもだ」
「次から次へとマシンガンのようにね」
「まぁーそら、写真を撮るのは面白いわさ。
 でもね、SX-70ってカメラは撮影すると次々から次へと
 イメージがカメラから飛び出してくるだろ」
「結局の所、撮ったイメージの重みで自分のボートが
 沈んでしまったんだよ」
うわさじゃ「今でも、川の中で水の写真を撮っているらしいよ」


「釣れた写真は
ほとんどが同じようなイメージばかりだけれど、
玉にレアー物があるんだ。まぁーなんと言っても、
とにかく撮りまくっていたからさ、
そりゃー中にはおもしろいのもあるわさ」
「でね、後でそのインスタントイメージを、
仲間同士で交換するのさ」
「おもしろいイメージを沢山集めると、
えらくなって自分の地位が向上するってわけ。
最近は輸出する業者なんかも出てきてさ。
 何でも地球の裏側でも流行っているらしいよ」
「とくに三戸黄門の葵の御紋の入った女忍者のイメージが
 飛ぶように売れるらしい」
「そんなの一体どこで釣ったのやら。羨ましい限りさ」


「どうだい君もやってみるかい。
あそこの席はけっこう釣れるよ」
「ちょっとした宝探しみたいなものさ、
 それにいきのいいのは色鮮やかだぜ」


「いや、僕は遠慮しときます」
とだけ答えて次の車両に移ることにした。
やっぱり事情がよくわからない。


そう言えば
僕が先ほど入り口で足が川に浸かった時、
何かに触れたような気がして拾ったのは
ポラロイド写真だったんだ。
とりあえずポケットにいれたけれど。


次の車両に移ると
中はがらんとした空間に二人の人物が
ひっそりと席に座っていた。


少年と老人だ。


老人は星と月と金平糖が詰まった
カラフルな透明のステッキがとてもよく似合う。
そのステッキを打ち出の小槌のように振ると
純粋空間の移動が起こったり、
時間の抽象やらが落っこちてくる。


少年の方はちょうど今、
密林の冒険から帰ってきているようだ。
彼の万華鏡を覗き込むと
不思議な幽体離脱が起こって
あられもない創造力がつき始める。


二人の話は、
実態のないジオラマの街が
夕暮れ時のグラデーションに包まれて、
なんだかそこはかとない感性の抜け殻が
窓から入り込んで来た汽車の蒸気と
混ざり合いながら蒸発している。


でも、彼らの話が聞き取りにくくなると。
先ほどとりあえずポケットにいれたポラロイド写真の色を
その蒸気で温めるんだ。


すると今度は
もやもやした僕の意識が
水蒸気のコラージュになったかと思うと
次第に感光され始めた。

ダゲレオタイプの写真のように
陽画と陰画が同時に存在しながら
きらきら光るアマルガム波動が
二人の話と同調し始めると、
僕のアイデンティティが徐々に喪失されていった。


そして僕は
「ありがとう」という蒸気言語を思わず自分の口から
シューシューと吐き出しながら、
いつのまにか去ってゆく
その蒸気機関車の蒸気のゆくえを
線路の上でただ眺めていたんだ。